大相撲の歴史において、豪快な取り口と甘いマスク、そして歯に衣着せぬ鋭い解説で長年にわたりファンを魅了し続けた第52代横綱・北の富士勝昭。現役時代から審判部長、そして歯に衣着せぬ相撲解説者として昭和・平成・令和の三時代にわたり土俵を見つめ続けたその足跡は、今なお多くの相撲ファンの記憶に深く刻まれています。
本稿では、公式記録や信頼できる関係者の証言に基づき、まさかの展開となった波乱の大関昇進の裏側、審判部長時代における知られざるエピソード、そして白鵬との一連のやり取りなど、日本相撲界の歴史を彩った独自の生き様を徹底的に紐解いていきます。
第52代横綱・北の富士勝昭の基本プロフィールと経歴

北の富士 勝昭(きたのふじ かつあき)は、1942年(昭和17年)3月28日生まれ、北海道旭川市(出生は網走郡美幌町)出身の大相撲力士です。九重部屋(入門時は出羽海部屋)に所属し、第52代横綱として数々の名勝負を繰り広げました。本名は竹澤 勝昭(たけざわ かつあき)。得意技は突っ張り、左四つ、寄り、上手投げ、外掛けであり、理詰めの強さと華やかさを兼ね備えた近代的な横綱像を体現しました。
現役引退後は九重部屋を継承し、のちに千代の富士や北勝海といった数々の名横綱を育成・輩出する名伯楽としての手腕を発揮しました。さらに日本相撲協会では審判部長や広報部長などの要職を歴任し、土俵の内外で相撲界の発展に尽力しました。2024年(令和6年)11月12日に波乱と栄光に満ちた生涯を閉じましたが、その存在感は現在も色褪せることはありません。
以下に、北の富士勝昭の生涯における主な経歴と役職の変遷をまとめます。
| 時期・年代 | 主な出来事・役職 | 備考・詳細 |
|---|---|---|
| 1942年3月28日 | 北海道旭川市生まれ | 本名は竹澤勝昭、出生地は網走郡美幌町 |
| 1966年7月場所後 | 大関昇進 | 直前3場所の成績は28勝17敗と異例の抜擢 |
| 1970年1月場所後 | 第52代横綱昇進 | 昭和を代表する横綱として黄金期を築く |
| 1974年7月場所 | 現役引退 | のちに九重部屋を継承し、後進の指導にあたる |
| 1980年代〜1990年代 | 審判部副部長・審判部長・広報部長 | 協会の要職を歴任し、相撲界の運営を支える |
【波乱の裏側】予想外すぎた大関昇進の知られざる伝説
北の富士の大関昇進は、大相撲の歴史においても極めて異例の経緯をたどりました。1966年7月場所後に大関に昇進しましたが、昇進直前3場所の成績は8勝7敗・10勝5敗・10勝5敗の合計28勝17敗というものでした。これは15日制が定着した1949年5月場所以後では、北葉山と並ぶ最低の数字でした。
当時、豊山(初代)の一人大関という番付の事情があったとはいえ、昇進基準が現在より甘かった当時であっても「まさか」と言われる大関昇進でした。それ故か、北の富士自身も「まさか自分が大関に昇進するなどとは思っていなかった」と語っており、昇進伝達式の朝は熟睡していました。部屋の床山から叩き起こされて初めて自身の昇進を知るという、前代未聞の幕開けとなりました。
加えて、本人も出羽海部屋も全く予想していなかったため、協会からの昇進伝達使者を迎える際に必要な紋付や足袋すら用意していませんでした。紋付は当時兄弟子であった横綱佐田の山から借り、足袋は足の大きさが同じだった柏戸から借り受けることで、出羽海部屋での昇進伝達式にようやく間に合わせたという逸話が残されています。また、本来立ち会うべき師匠の8代出羽海夫妻も不在だったため、佐田の山が師匠代理を務めるという、文字通り波乱に満ちたドラマチックな門出となりました。
審判部長・広報部長としての苦闘と組織への貢献
現役引退後、指導者として九重部屋を率いた北の富士は、日本相撲協会の役員としても重要な役割を果たしました。1982年の審判部副部長(役員待遇)時代には、知人の暴力団員を横綱千代の富士の結婚式に出席させていたとして一時委員(無任所)に降格されるという苦難も経験しましたが、その後副部長に返り咲き、理事昇格後は長らく審判部長を務めました。
審判部長として厳格な土俵の判定と秩序の維持に努めたほか、のちには新設された広報部長も務めました。しかし、のちのインタビューで北の富士は「広報らしいことは何もやってなかった。フィルムを提供するなどして、儲けることばかり。当時の協会はそういう考えだった。インターネットを扱える人間も全くいなかったしね」と、当時のアナログな組織の実情を率直に振り返っていました。
また、1996年9月に巡業部長だった二子山が申告漏れを指摘された件で解任された際には、自身の協会退職まで広報部長と兼任で巡業部長も務めるなど、組織の危機管理や運営の要として奔走しました。その客観的な視点と現場主義の姿勢は、協会の近代化における貴重なステップとなりました。
名解説者としての矜持:白鵬との一連のやり取りにみる眼力
土俵を離れてからの北の富士は、NHK大相撲中継の解説者として絶大な人気を誇りました。歯に衣着せぬユーモアと、力士の本質を見抜く鋭い批評眼は多くの視聴者を惹きつけましたが、その象徴的な出来事の一つが2015年の横綱・白鵬とのやり取りです。
2015年5月場所12日目、白鵬は大関・豪栄道の首投げに敗れました。土俵際でもつれ、白鵬の右肘が先に土俵外につくという際どい一番でしたが、取組後に白鵬は礼をせず、土俵下でぼうぜんと立ち尽くしました。この態度に対し、北の富士は中継で「物言いが付いたとしても確認程度。子供でも分かるんじゃないですか」と厳しくコメントしました。
この評は、同年1月場所13日目における白鵬と稀勢の里の取組が同体取り直しとなった際、場所後に白鵬が「あれは自分の勝ち。子供が見てもわかる」と審判を批判して協会内外から苦言を呈された直後の出来事でした。北の富士は、力士自身の過去の発言を引用しつつ、横綱としての品格や敗者としての礼儀を鋭く問い質しました。忖度を一切排し、相撲道に対する厳格な姿勢を貫いたこの姿勢こそが、北の富士が「伝説の解説者」と称される所以です。
【北の富士】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:北の富士勝昭の本名や出身地はどこですか?
A1:本名は竹澤勝昭(たけざわ かつあき)です。北海道旭川市出身(出生は網走郡美幌町)で、九重部屋(入門時は出羽海部屋)に所属した第52代横綱です。
Q2:大関昇進時の「まさかのエピソード」とはどのようなものですか?
A2:昇進直前3場所の成績が28勝17敗と異例の低成績だったため、本人も部屋も全く昇進を予想していませんでした。伝達式の朝は熟睡しており床山に起こされたほか、紋付を佐田の山から、足袋を柏戸から借りるという慌ただしさでした。
Q3:解説者としての北の富士の特徴は何でしたか?
A3:歯に衣着せぬ辛口でユーモアあふれる解説が代名詞でした。力士の甘えや無気力な態度には厳しく苦言を呈する一方、優れた相撲には惜しみない賛辞を送り、大相撲の魅力を多角的に伝える解説者として絶大な支持を得ました。
まとめ:昭和・平成・令和を駆け抜けた相撲界の巨星の遺産
第52代横綱・北の富士勝昭は、力士として華やかな横綱の地位を極め、親方・指導者として名横綱を育て上げ、そして解説者として多くのファンに相撲の真髄を伝え続けた稀有な存在でした。
予想外の大関昇進という波乱の幕開けから始まり、審判部長や広報部長としての組織への貢献、そして白鵬をはじめとする後進への厳しくも愛情ある眼差しに至るまで、その歩みは常に日本の大相撲の歴史と深く共鳴しています。時代が令和へと移り変わっても、北の富士が残した独自の美学と熱い相撲愛は、これからも人々の心の中で生き続け、語り継がれていくでしょう。